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 《2022.11.12証より》

 きょうは私が三位一体を理解した日のことと、それ以前のこと——つまり洗礼は受けたけれどもクリスチャンになれていなかった時期の話を聞いていただこうと思います。


 私が洗礼を受けたのは5年前です。

 若い頃からキリスト教文化には関心があり、また聖書を読むこともあったものの信仰などではなく、教会に行くなどとは思いもつかずにいたのですが、ある時期インターネットである聖書の講解シリーズをしばらく聞きつづけるうち、その会場を訪ねる気になったのです。そして半年後に洗礼を受けました。

 その時私は、聖書はすべて本当のことが書いてあると信じたのです。すべて読んだわけでもなかったのですが、聖書は真実だと確信が生まれたのです。それで受洗しました。

 ところがこのあと、自分は救われていないことが明らかに分かってきました。何より致命的に、私は祈ることができませんでした。

「信じれば、救われる」と言いますが、ということは、「救われていないのは信じていないからだ」ということになります。信じてなかったのだなと思いました。だとすれば「信じる」とは何なのか。

「イエスが贖いのために十字架で死なれ、葬られ、3日後に復活した」これを信じますかと聞かれ、私が信じますと告白したのは、聖書を真実と受け入れたからという以上の意味はなかったのですが、でも、こんな簡単なことをおごそかに信じますと告白するのは、考えてみれば普通じゃない。奥義のようなものがあって、真のクリスチャンが「信じる」というときにはもっと違う意味があるらしい。とは思うものの、私にはその奥義が見えてこない。

 そもそも新生体験なるものをしていないのに受洗してしまった、偽の告白をしてしまったという後ろめたさもありましたし、奥義を知るものと知らないものでは壁の向こうとこちらで話しているようなものですから、いじけたような気持ちもわいてきて教会に関心が薄れていきました。

 教会にはいかなくなりましたが、YouTubeや本を通して答えを求め続けていました。でも、なかなか答えの出ない月日でした。いつか電撃のように悟りが開かれて救われるのかなと思い続けていました。


 そして、ちょうど1年ほど前の体験になります。

 祈りができないクリスチャンでしたから、とにかく「主の祈り」を唱えてみたりしていました。この日も、道を歩きながら、「主の祈り」を心に唱えてみました。

「天にましますわれらの父よ」と言ったところで、とうとつに不満がわいてきました。

「『天に』なんていうからダメなんだよ! 絶望的に遠いじゃないか! こんな祈りしかないのだったら、祈りなんてありえないじゃないか!」

 ところがその瞬間に—―不満を思った瞬間に——すっと答えが出たのです。

「あ、そうか。三位一体だからか。」

「聖霊が地上におられるから、天の父に祈ることができるんだ。」

 そしてその瞬間、祈りの根拠を思いがけず納得したその瞬間から私は祈ることができるようになったのです。

分かってみれば至極明らかなことでした。イエス様はご自分が去った後地上に聖霊が来られると言っているのです。


 すごくシンプルなことです。三位一体の主に向かってこそ祈りはあるのです。

 逆に、三位一体でなければ祈りはあり得ないのではないか。たとえば三位一体を知らずに、天の父に祈るというのは、偶像に祈る人たちの祈り方に似ているのではないでしょうか。たとえばユダヤ教徒もイスラム教徒も、偶像をもちませんが、祈り方は偶像への祈りと同じだと思います。ヨハネ9章41節のイエス様の警告「『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」は、ここに適用されるのではないでしょうか。

 しかし私自身、「見える」と言い張るものになる恐れもありました。というのは、神秘的な霊体験を待ち焦がれて、霊的なものを不自然に追い求めていたからです。

 いまでは分かりますが、神秘体験は追い求めるべきものではありません。その体験によって何を得たかが重要なはずなのに、体験をした/しないにこだわってしまっていたのです。

 三位一体の神が分かり、祈れるようになってからはこういうこだわりは無くなりました。三位一体が分かったことで、神が実在感をもって理解できるようになったからです。

 こんな大きな変化があったからには、これが新生体験だったかと思いますが、これは神秘でも奥義でも、感覚的なものでさえもなくて、理解と納得でした。人間の言葉でちゃんと「三位一体」という知識が得られたのです。

 もし、それまでの私のように、感覚的な意味での回心を求めている人が今いるならば、その人には、言葉と知識を求めたほうがいいよと教えてあげたい気持ちです。

 さらには、クリスチャンの大事な務めは、三位一体を知らせていくことではないかと思っています。神秘をまとって、大事なところを奥義と呼ぶような伝え方でなく、根幹となるものをはっきり言葉で伝えたほうがいいと思うのです。


「神は愛である」という最高度に抽象的な言葉も三位一体から説明できます。これは清野隆二牧師、デヴィッド・ポーソンのメッセージから学びました。三位でおられるから神自身が関係性なのであって、神自体が愛なのです。神が愛にあふれた方だという意味の詩的表現などではありません。三位一体を知っていれば、愛というものが実在感をもって見えてくるのです。そして、もうひとつ。聖書の読み方が分かってきます。三位一体という言葉は聖書に出てきませんが、聖書の全体を通して、根幹にあるものです。聖書を読むことの本来の意味、想像以上の奥深さが浮かび上がってくるのです。


 さて、こんな私が、「見張り人」という働きに参加しています。主旨は警告です。

ウォッチマン知恵さんと出会ったのは2年ほど前ですが、知恵さんはクリスチャンの多くが救われていないのではないか、聖霊の内住がないのではないかと危惧する人で、一方私は聖霊の内住はおろか祈りもできないクリスチャンでした。しかし、話すうちに、互いの問題意識の一致している事柄が次々と出てきたのです。いくつかの問題がくっきりしてきて、それがやがて見張り人サイトへとつながっていきました。

 聖書に書いてないことが一般的な言説として定着してしまっている状況があり、それも多くあり、そのことが分かってくるにつれて危機感も増してきました。何百年も前から定着しているものもあります。「予定説」、「救いは取り消されない説」、「福音の三要素で救われる説」などは私には混乱と悩みをもたらしましたし、逆にこれらを受け入れ安心して自分の救いを吟味しなくなってしまうクリスチャンの危惧もあるのです。さらに艱難前携挙説も含めて、広い道へむかってしまう傾向に警告を広めていくのが見張り人の働きです。

私のようなものが、この警告は重要だと明らかにわかるという点に、事の重大さがあります。世の中の動きが加速しています。見張り人サイトの働きが、立ち止まって考えるきっかけになってくれるだけでも、いいと思っているのです。

美奈子

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